南京大虐殺で「百人斬り」を競う狂気の日本軍、当時の新聞記事を読んでみる

百人斬り

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南京で百人斬りを競い狂う日本軍を讃える日本の新聞記事を紹介します。「南京虐殺はなかった」から「あったけど少なかった」まで、南京大虐殺をなかったことにしたい嘘つきをよく目にしますので、ここで事実として、当時の新聞記事から、裁判での証言まで、まずはファクトを見てみましょう。

出展・引用読む・考える・書く「稲田防衛相就任を祝して「百人斬り」事件を振り返る(1)事件当時の報道」より

発端…東京日日新聞1937年11月30日付朝刊(第1報)

「事件」は日中戦争時、日本軍が上海周辺から中国の首都南京を目指して怒涛の進撃を続ける過程で発生した。二人の青年将校が、それぞれ戦場に持参した伝家の宝刀を使って、どちらが先に百人の中国兵を斬り殺せるか競争しているというのだ。報道によると、この第1報の時点で既に二人合わせて80人を斬っている。

百人斬り

東京日日新聞1937年11月30日付朝刊(第1報)

百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人

常州にて二九日浅海、光本、安田特派員発】 常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたった三日間で突破した。まさに神速、快進撃。その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は二十五人斬りを果たしたという。一人は富山部隊向井敏明少尉(26)=山口県玖珂郡神代村出身= 一人は同じ部隊野田毅少尉(25)=鹿児島県肝属郡田代村出身= 銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

無錫進発後向井少尉は鉄道路線二十六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬って先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起ってその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた。

その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、二九日常州駅で六名、合計二十五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行った時この二人が駅頭で会見している光景にぶつかった。

向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらい斬ることになるだろう。野田の敗けだ。俺の刀は五十六人斬って歯こぼれがたった一つしかないぞ。
野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしています。僕は○官をやっているので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ。

躍進…1937年12月4日付朝刊(第2報)

敵国首都南京への快進撃に国民は熱狂し、二人の「勇士」が百人斬り競争をしているという報道が伝わると、両少尉はたちまち有名人となった。記者たちは二人の所属部隊を追って続報を出し続けることになる。

百人斬り

1937年12月4日付朝刊(第2報)

急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過

【丹陽にて三日浅海、光本特派員発】 既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入場までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となった。
常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬った訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿う同一戦線上、奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(いずれも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬った。
中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。

野田のやつが大部追いついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬った奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になって貰うよ。

大接戦…1937年12月6日付朝刊(第3報)

百人斬り

1937年12月6日付朝刊(第3報)

《89-78》〝百人斬り〟大接戦 勇壮!向井、野田両少尉

【句容にて五日浅海、光本両特派員発】 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は、句容入城にも最前線に立って奮戦、入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名という接戦となった。

決着はつかないまま「延長戦」へ…1937年12月13日付朝刊(第4報)

東京日日新聞の一連の記事の最後は、南京陥落前日の12月12日、孫文の陵墓のある紫金山の山麓で二将校に面会し、インタビューしたものである。二人とも目標の「百人斬り」は達成したものの、結局どちらが先に百人斬ったかが分からないため勝負は引き分け、改めて「百五十人斬り」を目指して勝負再開、という話で終わっている。

百人斬り

1937年12月13日付朝刊(第4報)

百人斬り〝超記録〟 向井106-105野田 両少尉さらに延長戦

【紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発】 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌※両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五というレコードを作って、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「じゃドロンゲームと致そう、だが改めて百五十人はどうじゃ」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち、

知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快じゃ。俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからじゃ。戦い済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいままよ」と刀をかついで棒立ちになっていたが一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ。

と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。
(写真説明)〝百人斬り競争〟の両将校 (右)野田巌少尉 (左)向井敏明少尉
=常州にて佐藤(振)特派員撮影=

(※編集者注釈※本記事中の「巌」は誤字。正しい名前は「毅」)

このように、事件をリアルタイムに伝えた東京日日新聞の一連の記事では、両少尉の行為は戦闘中に敵兵を斬った武勇伝として描かれ、勇猛果敢な皇軍の姿を求める読者から熱烈に支持された。

地方の名士

「百人斬り競争」ですっかり有名になった向井・野田両少尉※は、その後もいわば「地方の名士」として、たびたび新聞に登場したり、地元で講演を依頼されたりするようになる。下は、大阪毎日新聞鹿児島沖縄版(1938年1月25日付)に掲載された野田少尉に関する記事である[1]。

※ 向井・野田両氏の最終軍歴は少尉ではないが、ここでは「百人斬り競争」実行時の階級である「少尉」に統一して表記する。
百人斬り

大阪毎日新聞鹿児島沖縄版(1938年1月25日付)

二百五十三人を斬り 今度千人斬り発願

さすがの“波平”も無茶苦茶
野田部隊長から朗信

南京めざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立って、壮烈無比、阿修羅のごとく奮戦快絶“百人斬り競争”に血しぶきとばして鎬しのぎを削った向井敏明、野田毅両部隊長は晴れの南京入りをしたが、その血染の秋水に刻んだスコアは一○六=一○五、いづれが先きに百人斬ったか判らずドロンゲームとなったが、その後両部隊長は若き生命に誓ってさらに一挙“千人斬”をめざし野田部隊長は□□の敗残兵掃蕩に二百五十三人を斬った、かくして熱血もゆる両部隊長の刃こぼれした白刃に刻んでゆく“血刃行”はどこまで続く?……
このほど豪快野田部隊長が友人の鹿児島牌枕崎町中村碩郎氏あて次のごとき書信を寄せたが、同部隊長が死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な雄姿そのままの痛快さがあふれてをり、“猛勇野田”の面目躍如たるものがある――


目下中支にいます……約五十里の敵、金城鉄壁を木ッ葉微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまった、極楽に行きかかったのは五回や十回じゃないです、敵も頑強でなかなか逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来たわけです、小銃とか機関銃なんて子守歌ですね、迫撃砲や地雷といふ奴はジャズにひとしいです、南京入城まで百五斬ったですが、その後目茶苦茶に斬りまくって二百五十三人叩き斬ったです、おかげでさすがの波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬をやろうと相手の向井部隊長と約束したです、支那四百余州は小生の天地にはせますぎる、戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくってくれました
(略)
まだ極楽や靖国神社にもゆけず、二百五十三人も斬ったからぼつぼつ地獄落ちでしょう、武運長久(われわれは戦死することをかく呼んでいます)を毎日念じています、小生戦死の暁は何とぞ路傍の石塊を拾ひて野田と思ひ酒、それも上等の酒一升を頭から浴びせ、煙草を線香の代りに供へられ度、最後に大元帥陛下万々歳……(写真は野田毅部隊長)

こちらは東京日日新聞(1939年5月19日付)で報じられた、その後の向井少尉に関する記事[2][3]。

百人斬り

東京日日新聞(1939年5月19日付)

戦死した競争相手に「孫六」手向けの斬れ味

向井中尉漢水戦線にあり

【漢水東方地区にて十八日西元特派員発】 わが木村、恒広、中西の諸部隊が炎熱百度を超え、クリークの水も沸く物すごい暑さの中を湖北平原の山岳地帯に堅固な陣地を築いていた敵将張自忠麾下の敵兵十数個師を包囲攻撃中、これに従軍した記者は、ある日寺荘という小部落で奮戦中の向井中尉にひょっこり出会った。
同中尉は一昨年南京戦の折、戦友の野田中尉と百人斬りを約して愛刀関孫六で敵兵百七人を斬り殺した勇敢な青年将校である。南京戦後長く伸びた髭を落として戦友野田中尉とさらに五百人斬りを約し、徐州、大別山、漢口、鏑祥と各地に奮戦、敵兵三百五人を斬ったが、野田中尉が海南島において戦死※し、今は一人で約束の五百人斬りを果たすために奮闘している。
実は向井中尉の念願は千人斬りだそうで、記者が「孫六は斬れますか」とはなしかけると、朴訥な中尉は次の如く語った。

「よく斬れます。ちょっと剣先がひっかかりますが、自信を持っているから大丈夫です。出征いらい病気もせず、いつも第一線に立って負傷せず、不思議なようです。長期戦に耐え得るように体ができているのでしょう。ただ部下を死なせて申し訳ないと思っています。それだけが残念です。遺族の方々に悔やみの手紙を出したのみで、千人斬りがやれないので残念だ。私は野田中尉と別れてから一人で約束の五百人斬りを果たすために一生懸命やっています。今日まで三百五人斬りました。部隊長が槍をもっておられるので、負けないように奮闘する決心です」

(写真は一昨年南京戦線における百人斬り競争当時の〈右〉故野田少尉と〈左〉向井少尉)

※野田少尉は戦死などしておらず、これは誤報。野田死亡説が流布した理由については、彼が後に参謀本部付南機関に配属され、特務工作の仕事に従事するようになった結果、公的な場から姿を隠すようになったこととの関連が指摘されているが真相は不明。[4]

上の記事での野田少尉は、「百人斬り競争」のときと同様、勇猛果敢な豪傑風の言動を続けている。ところがその同じ野田氏が、母校である小学校の後輩たちへの講演では、まったく違う話をしているのだ。

野田少尉の母校での講演 ― 志々目証言

野田少尉は1939年の春に母校である鹿児島県立師範学校附属小学校を訪れ、在校生たちに「百人斬り競争」の話をした。これを聞いた志々目彰氏は、後に野田氏の話の内容とそこから受けた印象を次のように書いている[5]。

 戦記雑誌『丸』が11月号で「日中戦争の全貌」という特集をしている。その中に当時毎日新聞社会部陸軍報道班員鈴木二郎氏の「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」という貴重な回顧録がある。
この文章は、栄誉をかけた“百人斬り競争”として二名の青年将校が南京攻略戦の中で二百名以上の中国兵を日本刀で切り捨てたことから始まっている。ところがこの事を、私は小学校の時本人から聞いて知っていた。それは私にとって“中国体験”のはじまりでもあった。

それは小学校卒業の一年前、昭和十四年の春だったにちがいない。生徒を前にA先生が「いちばん上級となった君たちに」といったのと、これで上級生がいなくなってせいせいするぞという解放感で気持ちが弾んでいたのとを記憶している。A先生はわが校の先輩であるというパリパリの青年士官をつれてきた。陸軍士官学校を出てまだ何年もたたないというその若い将校のキビキビした動作、ピンと前の立った士官帽をはっきりと思い出す。
私の出た学校は鹿児島県立師範学校附属小学校。父は県庁の下級官吏で、本来この学校へこどもを出せる階級ではなかった。私も附属特有のお坊っちゃんムードが嫌いで、それに勉強も好きでなかったから、毛並みのいい級友たちとは一歩距離があった。鹿児島というところは軍人の産地で、中学で少しできる奴は身体がよければ海軍兵学校か陸軍士官学校へ進む土地柄であった。(略)
さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったのかもしらないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。

「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……
実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……
占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」

これを聞いて、私の頭には新聞写真で見たような敵の陣地が浮かんできた。腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵……なぜ中国兵は逃げないのだろう? 反抗しないのだろう? 兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか。
そのほかにも「中支戦線」や戦場生活の話を聞いた筈だが、忘れてしまっている。
「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる……」という言葉は今でもはっきり覚えている。「ニーライライ」というのは、お前来い来い、という意味だそうだ。これは竹内好さんや安藤彦太郎さんたちのいう“兵隊シナ語”の一種でもあったのだ。
その頃の私たちには、斬られた中国兵のために憤り、或いは同情する“ヒューマニズム”はなかった。その中国の兵たちにも自分のような弟がいるかもしれないなどとは、思ってもみなかった。軍人になろうとしている兄貴を慕っていた私だから、そんな類推ができない筈はなかったのに……
だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという“勇士”の体験談は、私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ。それ以上のことは幼い自分には分らなかった。これでいいのだろうか、そんな軍と軍人で果して“聖戦”が可能なのだろうか。陸軍幼年学校に入り、国軍の生徒としての教育をうけるようになってから、そのことをあらためて思い出すようになっていた。(後略)

「百人斬り競争」とは言うが、連載記事で描かれたような戦闘中に敵兵を斬ったケースはむしろ例外で、ほとんどは投降した無抵抗の中国兵を据物斬りにしたものだったという真相が、当事者の口から初めて語られたことになる。

なお、この志々目証言は後の「百人斬り訴訟」で原告側から攻撃されるが、志々目氏の小学校の同級生である辛島勝一氏も同じ講演で野田少尉から捕虜を斬殺した話を聞いたと述べており、判決でその信憑性が認められている[6]。また、野田少尉はこのとき鹿児島一中でも講演をしており、全校生徒を前に剣道場で捕虜の据物斬りの格好をして見せたとの証言を秦郁彦が確認している[7]。

日本の残虐行為

「日本は過去韓国に酷いことをした」どんな?「知らない、習ってない」と訴える動画

2018年10月1日

注釈

[1] 星徹 『「百人斬り競争」を裏づける新史料を発見!』 週刊金曜日 2004年4月23日号
[2] 小野賢治 『報道された無数の「百人斬り」』 戦争責任研究 2005年冬号
[3] 笠原十九司 『「百人斬り競争」と南京事件』 大月書店 2008年 P.199-200
[4] 同 P.209
[5] 志々目彰 『日中戦争の追憶 “百人斬り競争”』 月刊中国 1971年12月号
[6] 笠原 P.203
[7] 同 P.136

戦時中は「郷土の勇士」として讃えられ続けてきた両少尉だが、「捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべき」と明記したポツダム宣言を受諾して日本が無条件降伏すると、一転して戦犯追求に怯える立場に立たされることになる。

次のページでは
次のページでは「百人斬り競争」報道後の調査、訊問、裁判について、当時の新聞から事実を紹介します。

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